⽇本の「宅配⽜乳」の歴史をさかのぼり、さまざまな知識を知っていただくコーナーです。 知らなかったこと、意外なことがいっぱい。
自前の容器からブリキ缶に
1866年(慶応2)、千葉から横浜に移った前田留吉が、和牛6頭を飼って始めたのが、日本の搾乳の始まりとされています。しかし、当初の牛乳は日常的に飲む飲料とは言えず、滋養の高い「薬」のようなものでした。
店頭での量り売りのほか、明治時代から牛乳の宅配は行われていたようです。しかし、専用の容器に入れて配達したのではありません。牛乳 が入った巨大なブリキの輸送缶に、ジョウゴと柄の長い杓子(しゃくし)をかけて訪問し、お客が出す鍋やどんぶりなどの容器に、5勺(約90ml)単位で量 り売りしていました。
最初の宅配牛乳専用の容器は、右の写真のような小さなブリキ缶でした。初めは口を紙で包んでいましたが、後に口を木やコルクの栓でふたをするようになりました。一部では陶器製のびんもあったようです。
ガラスびんの登場
ブリキや陶器の後は、ガラス製のびんが全国に普及していくことになります。明治22年、東京の津田牛乳店が初めてガラスびんを採用したのが皮切りだそうです。
初期のガラスびんは青や緑色をした有色びんが多く、首が細長いものでした。陶器や金属製のふたを針金で押さえたり、または金属のねじぶたで口を閉じていたようです。大正時代に、現在のびんビールで使用しているような王冠栓が登場してからは、王冠栓が一般的になります。
昭和にはいると、それまで細長かったびんの口が、現在見なれているような広口に変わります。昭和3年10月、警視庁により施行された 「牛乳営業取締規則施行細則」で、小売り配布用の牛乳は「無色透明硝子罎(ガラスびん)を用い、王冠栓を密栓」することが義務づけられたからです。
ところが、当時は無色透明ガラスびんに王冠栓で密栓することが難しく、業者は頭を抱えてしまいます。そこで外国の牛乳びんのカタログを取り寄せたところ、紙栓をしてフード(掛け紙)をしているタイプのものがあり、警視庁はこれを認めたと言います。初期のフードはパラフィン紙を輪ゴムで留めたものでした。
環境にやさしいリターナブルびんへ
一時は統一が図られた牛乳びんでしたが、昭和10年代になると戦況下の物資不足に伴って、再び有色びんが使用されるようになります。青いびんのほか、「雑びん」と呼ばれる再生ガラスの黒いびんも現れます。
戦後は、外国製(スウェーデン・テトラパック社)の三角錐をした紙容器が現れましたが、これは主に給食用に使用され、宅配用の容器はまた無色のガラスびんに戻ります。
また、牛乳以外に加工乳も登場しますが、加工乳には、丸いびんの代わりに角びんを使用したり、フードの素材を変えることで デラックス感を与えたといいます。
現在は、多くの乳業メーカーが宅配牛乳にリターナブルびんを使用しています。最新設備で製造されたリターナブルびんは、衛生面にじゅうぶん気を配りながら、各家庭に届けられ、家庭から回収されたリターナブルびんは、しっかりと洗浄殺菌したうえで再利用されています。
ブリキ缶からガラスびん、そしてリターナブルびんへと、宅配牛乳の容器は、衛生面でも環境面でも常に進化しつづけています。